2010年3月2日、腰のヘルニアを摘出する手術を受けました。 サイトに、日々の状況を掲載していたのですが、不具合により履歴が消えてしまいました。 そんな訳で、当時の状況に加え、後から聞いて分かった事などを加えた記録を作成してみました。 2010年3月1日(月) 手術前日 いよいよ、明日は手術です。 何かの本番のようでドキドキしますが、全身麻酔というリスクを背負った手術だけに、自分でもかなり心配です。 手術の内容についてはネットで目にしたり、説明を受けているので、ある程度の想像が出来ますが、1つだけ分からない事があります。 それは、手術前に行なわれる『マーキング』という処置について。 この「鋼線を入れます」って、どういう処置なんでしょうか。分からないだけに不安です。 また、手術後のご飯はこんな予定になるようです。 順調ならば、という但し書きがつきます。 窓際には、手術を受ける人が用意すべきモノ、が並んでいます。 大きなものは、枕で、横向きになったときに背中側に入れて姿勢を固定するためだそうです。 左側はタオルやバスタオル類に寝巻き、あと、「T字帯」も積まれています。 T字帯は、いわゆる「ふんどし」です。何だか泣けてきますが、もう、どうにでもなれ、という感じです。 ベッド脇に点滴台が据え付けられました。 2010年3月2日(火) 手術当日 準備が色々あるため、朝5時頃起きました。 手術前にトイレに行って、できるだけ用を足さなければならないので2回ほど行きました。 朝は、水すら飲めない状況なので、未だ腸も眠っているんでしょう。少々、苦しみながら、何とか頑張って済ませました。 朝7時頃、点滴がやってきました。 手術が9時45分からなので、今朝は、いつもよりずっと早いペースで色々な事が動きます。 点滴の針が腕に入れられました。 ちなみに、点滴の針は、2重構造になっていて、刺すための金属針を引き抜くと、樹脂製のチューブが残るようになっており、そうなれば比較的、自由に曲げる事が出来ます。 従って、あまり痛みもないのですが、手術前に入れる針は、いつもより太くて少々痛かったです。 看護婦さんの説明によれば「輸血も可能な径」だとの事で、本当に手術するんだな、という気持ちになってきます。 尚、この太い針、手術後、数日は刺しっぱなしになります。 手術開始の約1時間前から、点滴が始まります。 始まるとすぐに、1階のレントゲン室に連れられて、未知なる『マーキング』を受ける事になります。 このマーキング、患部を取り違えないように目印として付けるものらしいのですが、どういう目印なのか分かりません。 ただ、以前、看護婦さんに『背中から針金が飛び出していて痛そうに見える』という話を聞いていたので、背中に目がついていなくて良かったとも思いました。 レントゲン室に入ると、今日、初めて、主治医の先生の顔を見ました。 人当たりの良い方ですが、今日は、いつになく真剣な顔をしているのが分かり、これはタダ事じゃないな、という気持ちが高まります。 実 際のマーキングは、部分麻酔のおかげで、痛みよりも異物感の方が強く、むしろ変な感じでしたが、マーキングが終わったあと、車椅子に乗せられる時に、背中 からはみ出しているであろう針金の事を考えて、「もたれちゃっても、大丈夫ですか?」と尋ねました。「大丈夫ですよ」と言われて、安心して車椅子に身を預 けましたが、感覚がないので、もう、どうなっているのか分かりません。 車椅子のまま、2階の手術室に移動です。 ここではじめて、母と(代理人)の顔を見ました。 自分が不安なのは当然ですが、自分の中では、どうにでもなれ、と覚悟が決まってしまっているので、殊更に不安そうな2人の顔を見ると、なぜ、そんなに心配そうな顔をしているのか、と不思議な感じがしました。 手術室、というのは初めて入ります。 メガネをしていないので、詳しい事は分かりませんが、長い廊下のようなところを通って先にずんずんと連れて行かれた記憶があります。何となく、暖かいような部屋で、思った以上に人がいるなぁ、と思いました。 車椅子が止まった場所は、天井にいくつものランプがついたベッドが置いてある部屋でした。 それを見て、ここが手術室か、と思ったのですが、「テレビで見た事がある」ような大袈裟な感じではなく、むしろ、歯医者を少し大規模にしたような感じがしました。おそらく、部屋が明るかったので、そう思ったのでしょう。 車椅子は、手術台の横に止められ、そこで、何だか痛い注射を打たれました。 よく揉んでいたので、筋肉注射だと思いますが、痛いなぁ、と素で思いました。 麻酔の先生に名前を呼ばれ、そして話しかけられました。 マスクのようなものを口に当てられて、吸ったり吐いたりして下さい、と指示をされました。 そのうち、後ろの方で、何か薬の名前と量を口頭で確認するような声がして、その麻酔薬を、マスクの中に通じるチューブに入れられたらしい気配がしました。 そして、麻酔科の先生の「これを吸うと、少し眠くなりますよ」の声を聞いた直後、まったく、意識はなくなりました。 ◆◆◆ 手術の予定は2時間でした。 しかし、実際は、出血が止まりにくかった事などがあって、4時間半ほどかかりました。 従って、実際に手術が終わったのは14時を回った頃でした。 この点、まったく、記憶にないのですが、手術室から回復室に搬送される際、(代理人)の顔を見て、「(代理人)がおる。ここは地獄か」などと口走ったそうです。失礼な言動ですが、まったく覚えていません。 その後、ナースセンター横の回復室に移動したようです。 無茶苦茶、部屋が暑かった記憶があり、実際、何度も「暑い、暑い」と言っていたそうです。 確かに、分厚い布団2枚に加え、電気毛布のお化けのようなものまでかけられていたそうで、そりゃ「熱い」だろう、と思いますが、その時、体温が34℃しかなく、体を温める処置だった事を後から聞いて驚きました。 また、麻酔が切れてきたのか「痛い、痛い」も繰り返し始めました。 そして、「ひざを伸ばしているのが痛いから、ひざの下に枕を入れて」とお願いし、枕を入れると「ひざを曲げると痛いから、枕を抜いて」と何度か繰り返したとか。 コントのような話ですが、曲げても伸ばしても痛かった事だけは覚えています。 そして、その後、肩口に痛み止めの筋肉注射を打たれました。 看護婦さんの話だと「30分程度で効いてくる」との事で、(代理人)は、時計を見ながら「あと15分」「あと5分」とカウントしながらなだめてくれていたようです。 そして、看護婦さんの言う「30分後」に、きっかりと寝息を立てて眠りについたので感心しながら安心したとか。 そういう危険な状態だったので、手術終了の(代理人)投稿は、手術終了から約1時間後になったとの事です。 サイトの更新:2010年3月2日 15時27分 ツィッターへの投稿:『手術、無事にオワタ\(^o^)/(by代理人)』15時25分 さて、参考までですが、麻酔後にされた事を並べておきます。 事前に麻酔の先生との面談で説明を受けていた事ですが、実際に、どれも覚えていません。 ・心電図の電極をつける まぁ、必要な事ですね。 ・鼻から胃袋までチューブを入れる。 寝たままの手術なので、胃液が流れて気管などに逆流するのを防ぐためらしい。 ・口から気管に管を突っ込む 酸素を送るため。 少量の水が入るだけでもゲホゲホとむせるところなのに、そんな管を突っ込むとは。麻酔の威力は恐ろしい。 ちなみに、管を突っ込むときに歯に当って、グラグラさせたり抜けたりする事があるらしいので、ご了承くださいね、という説明を受けていた。幸い、大丈夫でした。 ・尿管を突っ込む 寝ているときに、チンコに管を突っ込まれたようです。わーっ ・T字帯 要するにふんどし。手術の時の下着はこれ。わーっ 2010年3月3日(水) 手術後1日目 回復室から、病室に移されました。 背中がジンジンしているのと、頭が痛いのと、体中のあちこちが痛いので、もう、どうにでもなれ、私のことは、放っておいて、という感じです。 でも、コルセットを巻くのと、消毒とかで、寝ている姿勢から横向きの姿勢にさせられましたが、その時、背中が破れそうに痛くて、リアルに「ぎゃあ」と声を上げました。 真面目に痛いので、ベッド脇の手すりを脂汗をにじませながら握りつつ、これ以上、何もしないで、と祈りました。 でも、再び、元の姿勢に戻された時、やっぱり「ぎゃあ」と声を上げる事になりました。 手術が終われば、それで痛みが取れるかと思ったら、むしろ、今までで一番痛いくらいでした。 これは、後日聞いた話ですが、手術をした部位は、炎症を起こして腫れたりするようです。 つまり、ヘルニアによる圧迫が取れても、腫れる事で、圧迫が一時的に増す訳ですね。 そのため、中には「全然、治らないじゃないか」と文句を言う人も居るそうだけど、その気持ちは良く分かります。 手術の傷が痛いのと、手術前に痛かったところがそれ以上に痛いのとで、もう、二度と手術は嫌だ、と泣きたくなりました。 ただ、手術後に寝ている状態が続くと、いわゆる「エコノミー症候群」になり、場合によっては命に危険を及ぼす事になるので、足首などを動かすなど、足の運動を出来るだけ欠かさないようにしなければなりません。 熱があって喋るのも嫌でしたが、この運動だけは、出来るだけ意識してやるようにしました。 ただ、いくらでも寝られるので、気付けば足は止まっていましたが、幸い、血栓とか出来ずに済んだようです。 背中に刺さっているドレンパイプが抜かれました。 どこにどのように入っているのか分からないので、相当に不安です。 実際、これを抜くのは、そんなに痛くはありませんでしたが、麻酔もなしに、生きたまま背骨を抜かれるような気持ち悪さがありました。 「にゅるり」、そんな感じで、とても嫌な感じです。 消毒ついでに、身体を拭かれて、ついでに「お下(しも)」も洗われました。 どうやって洗うのかって? 尿管が付いたままの股間に、程よい温度のお湯をかけられて洗われましたよ。わーっ。 ついでに、まだ尿管がまだ取れないので、T字帯の「お代わり」になりました。もちろん、されるがままでした。 朝、お茶を少し飲んだけど、腸の動きが戻らないので、食事はありません。 腸の動きは、盲腸と同じ「おなら」で判断しますが、腹は減っていても熱があるので、食欲がわきません。 2010年3月4日(木) 手術後2日目 どうやって入れられたのか想像したくない尿管ですが、排泄にも慣れてきました。 何も口にしていなくても、点滴が続いているので、尿意はあります。いや、むしろ、唐突に、かつ、痛烈に尿意を催します。 しかし、その尿意は、尿管から流れ出る事で自然に消えて行くという、なんとも不思議な感覚ですが、何というか、排尿による「達成感」がないのでとても気持ちが悪いです。 でも、その尿管も抜かれる日となりました。 入った管を抜くだけ、そんな簡単な事だと思っていたのに、思った以上に看護婦さんは真剣な感じです。 「息を大きく吸って」と言われて吸い、「ゆっくり吐いて」と言われて吐く。 そのタイミングで、尿管をゆっくりと引き出しますが、管が引き抜かれて真空状態になるからか、チンコから「中身」がゆっくりと吸い取られそうになる気持ち悪さがあって、思わず「うわっ」と声を上げました。 引き抜かれる時間の感覚から、想像していたよりも長い管が入っていたようで、これは予想外のイベントでした。 さて、尿管が抜かれると、もう、自分でトイレに行くしかありません。 先生に「じゃ、立ってみて」と言われて立ち上がったとき、死んでしまうかと思いましたが、そんな状態なのに、もう、自分でトイレに行かねばならんとは、スパルタです。 トイレつきの個室があてがわれるのも、そのためのようですが、歩行器を頼りにトイレに入ると、もう、そのドアは閉まりません。 仕方なく、ドアを開けたままトイレに入るんですが、手術後まだ2日目、立ち上がっただけで死にそうに痛いのに、トイレに座って小用を足すのも一苦労です。正直、ドアの事なんか、どうでも良いです。 初めてのトイレの前、まだ、尿管の感覚が残っているのか、少々、お漏らしをしてしまいました。 ダメだとは思いますが、コントロールが出来ずに漏れ出てしまうんです。 ただ、溜まったものを出すのではないので、感覚的には尿漏れという感じでした。 また、初めてのトイレの時、出るのは、尿というより点滴液でした。 力を入れて出しにくいうえに、尿管から空気が入っていたんでしょうか。 途中で、チンコから空気が排出されるという、初めての経験をしました。 通常、液体しか出ないと思っているところで、こういう状態を目の当たりにすると、少々、驚きます。 まだ熱が高い中、少し、余裕が出てきたようで、こんな写真を写していたようです。 取り出したヘルニア「0.6グラム」は、記念に頂けるようです。 消しゴムを削ったような白いモノで、特にグロ画像でもなさそうなので、そのまま載せてみましたが、気分を害した方が居られましたら、ごめんなさい。 胴体に巻かれているコルセットの圧迫は、腸の働きに影響を与えてなんですが、夕方近く、おならのようなものが少し出ました。 そこで、予定より1日以上遅れて、ようやく「おかゆ食」になりました。 でも、5分粥なんて、ほとんど固形物のない代物です。 また、手術後は38度近い熱が人によって1週間ほど続く事もあるようですが、この時点では私も高熱の身。口がまずい上に、塩気がないので、まったく口に合いません。 これは、たまたま見舞いに来た母に食べさせて貰って、何とか流し込んだ、という感じでした。 ただ、手術後から今日まで、ずっと、眉間にしわを寄せていた私が、ようやく笑ったのが今日の夕方でした。 写真といい、少し、余裕が出てきたんでしょう。 しかし、携帯に届く仕事のメールについては、まだ、物を考えるのも喋るのも嫌な状態でしたが、何とか返信しました。 この頃から、困る事が1つ出てきました。 咳やたんです。 鼻から入れられていたチューブの影響か、鼻の奥が多少、鼻水を出しやすくなっているようで、ある角度で眠っていると、それがのどに回って、咳やたんの原因となります。 今の背中の状態は、例えるならば、巨乳のおねえちゃんがピチピチの服を着ているような状態なので、咳払い1つで、弾けて「出そう」になります。例え話の方なら、色気のあるものが飛び出してきますが、現実は、背中がぱっくりといきそうな痛みだけです。 たまたま、差し入れて貰った「e-maのど飴」に、何度か窮地を救ってもらった事か。 そして、この救世主たる「のど飴」は、明け方にも大活躍でした。 実は、明け方、今まで、感じた事のない吐き気やめまいを覚えました。 これは変だ、と思いながらも、空腹が行き過ぎた時の低血糖に似た感じだったので、のど飴を舐めてみたら、何となく症状が改善されました。 そりゃそうだ、手術が朝からだった上に、普通の人より1日食事の開始が遅いんだから、そうなっても仕方がありません。 もう、「e-maのど飴」の「アップルビネガー」は救世主の味です。 2010年3月5日(金) 手術後3日目 翌朝は、お粥となりました。でも、心情風景としては、ネコゲロです。 まだまだ、横を向くのも背中がビリビリして辛い状態ですが、看護婦さんが、ふりかけだの海苔だのをぶっ掛けてくれました。 ただ、そのせっかくの好意も、力を振り絞って、それを2口、3口食べたら、もう要らない、って感じです。 正直、熱があって口がまずい上に、身体が痛いので、食べられないというか食べたくないです。 しかし、五分粥、お粥、と続いたら、次はもう「常食」になります。 基本的に、外科手術であって、内臓は関係ないから仕方がありませんが、この熱と痛みの中では、食欲も出ません。 病院食は不味い、というのはこういう心境から出るのかと痛感し、また、ろくに食べられない食事の時間が苦痛にすら感じるようになりました。 そんなお昼ご飯に、こんな救いの手が差し伸べられました。 ダシの味すらロクにしない、「病院食」の味噌煮込みですが、味覚のない口でバサバサのご飯を食べるより百倍マシです。 どうにか1杯のうどんを食べて、ようやく「食べた」と実感しました。 働かない頭で会社からのメールに返信したら、盲腸での手術経験のあるO君から、手術後で、喋るのも嫌であろう時期に即答してくれるなんてすごい、などという感想を貰いました。 一応、私が上司にあたるので頑張ってみましたが、こういう感想は嬉しかったです。 そんな日の夕食はハンバーグです。 大好物ですが、午後から上がった熱のために、全く食べる気がしません。というか、枕元に置かれている匂いだけでも不快になります。 全く手が付けられないまま下げられましたが、たまたま冷蔵庫に残っていた昨日のリンゴを食べさせて貰いました。 よく冷えていて、とても美味しかったです。 そういえば、家では、熱が出たりしたとき、お粥とかじゃなくてリンゴだった事を思い出しますが、患者の病状に合わせて個別の診察や処置をしてくれるのに、食事は一律ってのはどうよ、と勝手な事を考えてしまいました。 それでも、少しは口にする事が出来るようになったので、本格的に腸が動き出したのか、ガスが結構出るようになりました。 ただ、トイレに関しては、どうにか行ける程度で、座った姿勢を保つのが精一杯です。 時期的に、「手術後、歩行器を使って歩けます」という頃ですが、この「歩けます」と、実際の「歩けます」は、相当ニュアンスが違います。正直、痛くて辛いです。 2010年3月6日(土) 手術後4日目 多少、熱が下がり気味になりました。 多少、物を言う気になりました。 多少、物が食べられるようになりました。 でも、体中から点滴の匂いがします。 特に、CRPが高い身なので、用心して、人より多くの期間、抗生剤の点滴が続いています。 そのため、尿やら汗やら、身体から点滴の臭いが湧き出るような人間になってしまいました。腋臭が点滴臭。 多少、モノが考えられるようになったので、ベッド上に設置されているアーム付きの電灯に、箱ティッシュを貼り付けてみました。馬鹿馬鹿しいようで、とても便利でした。 一方で、心配事がもう1つ増えました。 昨日から活発になった腸のため、ガスが出るようになりましたが、一向に「実」が出る気配がありません。 手術の日に済ませたとは言え、前日の夕食まで食べているんだから、そろそろ出ない方が変です。 そのため、何となく便意を催す度に、何度もトイレに行きましたが、どうも出ないので心配になります。 仕方がないので、「今日中に出ないようなら、明日、下剤を下さい」と看護婦さんに頼んでおきました。 これは、便秘薬のようなもので、正常に機能すれば、飲んだ翌朝に「心地よく」出るような下剤です。 手術前日に、心配な人は処方してくれるものですが、出来れば使いたくありません。 2010年3月7日(日) 手術後5日目 朝、何とか自然に「実」が出ました。バンザイ。 これで、何となく、口から尻までつながった、という感じがして、どこかしら食欲のようなものが戻って来ました。 人体とは不思議なものですが、かといって、何かを大量に食べる気は起きません。 ただ、そろそろ、トイレに行くのも慣れてきたので、歩行器を使って廊下を歩いてみました。 歩行器は、困難な歩行を補助する器具だと思いますが、現時点では、身体の一部です。 これがなければ、歩けない以前に立っていられません。 ぎこちなく歩きつつ、相変わらず残っている痛みに、「後遺症」という言葉を心配し始めました。 手術後、初めての「あくび」をしました。 腹筋を使うと、結構、痛いので、今までは噛み殺していましたが、何とか気絶しない範囲であくびする事が出来ました。 2010年3月8日(月) 手術後6日目 まだ熱が十分に下がらず、37度前半をウロウロしていました。 そんな検温、今朝は、ちょっと苦手のおばさんの看護婦さんでした。 「体温を測って」と言われて測っていると、電子体温計特有のピピピという音がなる前に体温計を取り上げられて、「まだ鳴ってないです」と抗議するも「この程度で良いんだよ」とか言われちゃいました。 体 温計は、今までにない36度5分を示しており、それをカルテに書き込んで帰っていったのを見て、さすがに乱暴だなぁと思いましたが、微熱が続いていて、そ れが下がったかどうかの瀬戸際で、あんないい加減な測定をされては困ると思って、あらためて測定したら、左右で体温が1度くらい違う事が判明しました。 汗とか挟み方とか要因があるようですが、明らかに、今まで計っていた右だと37度台の微熱、先ほど抜かれた左だと36度台の平熱です。 乱暴な体温計測のお陰で、妙な事を発見した朝でした。 トイレ付き個室から、通常の病室に移動です。 手術は日々行なわれているので、便利だといえ、私だけが占有するわけにもいきません。 大部屋は気を使ったり、いびきで眠れなかったりするので、贅沢のようですが、個室にしました。 そんな訳で、嫌でも廊下にあるトイレに、自分の足で行かなきゃならなくなりました。 よく晴れた昼下がり、歩行器で廊下を歩くとひんやりします。 「ははぁ、今日は比較的暖かいから、冷房が入っているんだな」と勝手に思い込み、ツイッターに「今日は暖かいらしい。院内にエアコンが入っとる。」などと投稿しましたが、実際は、晴れていても寒い日で、廊下がひんやりしていただけでした。 「午後、シャワーを浴びましょうか」と看護婦さんに言われました。 背中にテープを貼ってシャワーを浴びている人を風呂場で見かけた事があるので、ああ、あれか、と思いましたが、予約制で看護婦さん付き添いの上でシャワーを浴びるとの事でした。 脱衣所では、衣類やらコルセットやら、大半を看護婦さんのなすがままに脱がされました。わーっ。 でも、初めてコルセットを外したので、無茶苦茶不安です。 どうにか洗い場の椅子まで歩き、どうにか洗い場の椅子に腰掛けます。 気分的に座っているのがやっとの状態で、何とか、点滴臭立ち上る股間は自分で洗いましたが、頭から足の先までほとんどを洗って貰いました。 慣れているので、何とも思いませんよ、と笑顔で言われつつも、それなりにお若い看護婦さんなので気にならないと言えば嘘になります。 ただ、小柄な年寄りばかり相手にしているので、こういうデカイ背中は大変だ、と言われました。こちらは本音でしょう。 昨日に「あくび」に引き続き、初めての「クシャミ」をしました。 手術前は、結構、痛くてかなり慎重になっていたが、思った以上に楽に出てホッとしました。 それでも、立った状態では、両足にビリビリきて痛かったです。 2010年3月9日(火) 手術後7日目 3月9日の更新後、サイトのログファイルが消えてしまったようです。 かなりショックで、明け方からパソコンを開いて原因を調査しました。 しかし、ログはあるものの、ポストしたデータはサルベージ出来ませんでした。 契約しているサーバ屋さんに無理を言って、戻せる範囲で戻して欲しいとお願いし、翌日、サーバ屋さんが持っている3月1日時点のバックアップファイルから、何とか戻してもらいました。 手術後の記憶や記録は残っていますが、それ以前のものはほとんど残っていないので、とても助かりました。 そして、翌3月10日より、通常更新に戻りました。 手術について 長い間、ヘルニアと書いてきましたが、正確には脊柱管狭窄症が正しい病状になります。 私、どうも、先天的に脊柱管が細い部分があり、たまたま、そこにヘルニアが出てしまったようで、それが神経を圧迫したようです。 神経の圧迫度合いと場所は、ミエログラフィーという検査で分かります。 髄 液に造影剤を注入すると、それが伝っていって、神経のどこまで正常に伝わっており、また、どこが遮断されているか映像で見る事が出来て、手術対象となる患 部の場所も特定できるのですが、私の映像は、圧迫されている地点から画像上で白黒がはっきりするほど遮断されてました。 造影剤を注射した後、撮影用のベッドの上でかなり頭を下にした姿勢、まぁ、支えてなければ落ちるような角度まで傾けられたんですが、それでも造影剤がそれ以上は上(頭の方)に流れないという状態で、思ったより事態は深刻でした。 これは自分でも驚いたのですが、手術前は、杖なしで歩くと10メートルも歩けないような状態でしたが、杖を持ってすいすい歩いているのを目撃した人には想像がつかないことでしょう。いや、自分でも驚くほど、足腰が弱っていたようです。 さらに、その場所が、通常のお尻に近いL3〜5の位置ではなくL2という上の位置なので大変です。 院 長先生に言わせれば「数年に1人」という稀な位置だそうで、単に稀だけなら良いんですが、L3〜5のような下の方は、神経が「そうめん」のようになってい るから、簡単にそれを除けてヘルニアを摘出できるのに、上の方は神経が密になっており、神経の逃げ道がないという事でした。 神経を強く押せば、それを傷付け、様々な障害を引き起こす危険性もあると言う事で、慎重にならざるを得ないような場所でで、手術前、そのリスクや後遺症の可能性について説明を受けると、まじめに「手術、やめようかしら」と思うほどです。 実際、治療のための選択肢は「手術をするかしないか」しかないのですが、諦めるには早いので「する」を選択しました。 手術は、通常のヘルニア摘出の方法では無理なため、まず、椎弓という骨の一部を削り、狭い場所を広げて圧迫を軽くし、その上で、神経を除けてヘルニアを取り除く方法で行われました。 骨を削ると言っても、完全に取り去る「椎弓切除術」ではなく、その構造を出来るだけ残す「椎弓形成術」と言われるものが行なわれ、骨格構造は出来る限り保持されていますが、レントゲンで見ると、本来、ある筈のない「窓」が椎弓という部分に開いているのが見えます。 従って、多少は強度が落ちているようですが、よっぽど大丈夫だとか。 後ろから、目潰しの要領で「えいっ!」と突かれても神経に直撃する事はないらしいですが、何にしろ、そんな手術なので、身体は「切られて」いるだけじゃなくて「骨折」状態にあったと解釈するようです。なるほど、痛いわけです。 ちなみに、手術後の説明で「どうやって、骨を削るんですか?」と尋ねたら「エアードリルとか」と言われました。 ホームセンターかっ(笑) 点滴の跡は、こんな感じで、ポツポツとありました。 撮影は、長かった点滴が終わった3月10日頃の写真です。 でも、一番太い点滴跡は、今もプチっと残っています。 手術室前の廊下の写真ですが、左に見える光が反射しているドアが手術室へのドアですが、そこを通った事すら、あまり記憶にありません。 もう少し、痛い頃の記憶が残っていれば、不養生や不摂生を防ぐ事にもなりますが、悲しいかな、人間、嫌な事はすぐに忘れてしまうようです。 それにしても、2時間で終わる手術が、4時間半もかかってしまい、ほの暗い廊下の椅子に座って待つ人が、どんな気持ちで居たのか考えると、申し訳なくなります。 何にしても、昨年10月から始まったヘルニア騒動。 薬物やら注射やら温存療法を経て、結局、手術に至ると言う、教科書的なイベントであった訳ですが、ようやく、退院という事になり、1つの区切りを迎えた気がします。 同じようにヘルニアで手術を受けていた人が多く入院していましたが、40そこそこの私が、そうとう若い部類であった事を考えると、本来は、50代を超えた頃から、そのリスクがぐんと高くなるかと思います。 妙なところにヘルニアが出たきっかけは分かりませんが、原因の1つとして考えられるのは運動不足です。 主治医の先生は、運動不足で硬くなった身体によって、姿勢などに無理が出来て、無理なところに力がかかった結果ではないかと考えておられますが、確かにその通りだな、と思います。 35を過ぎた頃から、前屈なんて、ひざに届くか届かないか、という状態でしたが、そのため、リハビリには運動療法が取り入れられ、つまりは、ガチガチの身体を柔らかくするストレッチのようなモノを主眼において、再発しない事を目指しています。 Palmなお部屋の読者層は、おそらく、似たような世代か、もしくは、似たような職業の方々。 通常以上にリスクが高いであろう事を心配し、この手術記録が反面教師になりますよう、お祈り申し上げます。 |